~白砂青松~ 「津田の松原」

津田の松原の宣伝の歴史

琴林碑の画像 津田の松原が描かれているチラシの画像

江戸時代後期の享和元年(1801)には豪商であった津田村の安藝栄柱がその子、栄尚を京都の儒者・皆川淇園のもとへ訪ねさせ、「津田の松原」の絶景を全国に宣伝してほしいと依頼した。そのやりとりが淇園撰文に記述されており、それを後年、石碑に刻み松原内に建立し、「琴林碑」として現存する。

この碑文を要約すると次のようになります。

『東讃津田村の人で安藝栄柱という人がその子の栄尚というのを自分のもとへよこした。栄尚いわく「津田村の八幡神社の前には海に臨んだ三里も続いた松原があり、松の数は数千株でどれもこれも珍しい形をしていて、おまけに白砂緑陰でそれこそどんな絵もかなわない。清風が流れれば琴を奏でるのに似て琴林という名がついていると。けれども、琴林はへんぴな所にあるからその景色が舞子の浜に優れていても世の人のほめたたえるところとはなっていない。私ら父子はこの松原がどうして世の中の人に知られないのかとはがゆく思っており、先生の筆の力を借りて天下に広めたくお願いしたい。」との事である。

だいたい、世間で名勝だ美景だというのは都会の近くか往還ぞいの便利なところである。自分の奇勝やかくされた景色をさぐってこれを世に広めたいと思うが、あまり健脚でもなく、思うように実行できなくなっている。

幸い、今ひとついい事を聞いたので、早速にこれを書きとめて残すことにする。』

また、明治30年(1897)には大阪にて、津田出身の八木弁助が元高松藩の儒者・藤沢南岳を訪ね、碑文を依頼し、2基目の「琴林碑」が建立された。これは次のような大要となっています。

『琴林と呼ばれるこの松原の松は幹高く、その根は人がくぐれる程である。皆川淇園翁もかつてこれを書いたところである。

八木弁助というものが、そのことについて自分のもとへ碑文を求めに来た。自分は40年余り前、先君(高松藩主)にお供して、初めて津田村で一泊したが、大雪となった朝に松原へ行ったが、一面の銀世界でまことに俗界では見られない眺めであった。

それから後は、この村に行くたびに必ず友人と林間をさまよった。友人らは皆、これほどの美景でありながらその位置が南に偏しているため、都人の知らないことを惜しんだ。

けれども、実あれば必ずあらわれてくるはずで、これを大切に育ててゆくと共に世間にも推称しなければならない。

海岸や松原の美しいところは自分の知る限りではこの松原より優れた所はなかった。

弁助の郷里の松原、「琴林」の名を世に推称しようとする精神たるや松原と共に立派であるが、自分の文才ではその美しさを書き表すことができないが、かつて遊んだ時のことを思い起こし、書き残して世人に伝えようとするものである。』

このように先人達の津田の松原の宣伝にかけた熱意は今の私達にも共感大であります。また、往年の宣伝形態として残っているものに、明治中期から大正にかけての「引き札」といった商店などのチラシがあります。錦絵のような色使いで、松原が描かれているのも興味を引かれます。